終活を通して見えてきた、“これからの私”
「終活を始めた」と話すと、時々、驚かれます。
終活って、大袈裟ですか?
“終活”というワードは、どこか大げさな、どこかしら意識高い系ぶった発言のように捉えられがちなのは、田舎暮らしだからでしょうか。世代的なものでしょうか。
「もうそんな年?」
「そんなことわざわざしなくても…」
「なにをやるの?」
「別にそんな…構えなくても」
「大げさ」
なと、様々なリアクションが返ってきます。
さらに、
「そんなこと考えてる暇なんてないわ、毎日毎日、生きるのが精いっぱい」
と言われることも……。その気持ちは、分からなくもないです。
そして、同じように必死で生きるだけで精一杯、よけなことなんて考えていられないという人が多勢かもしれません。そんな時代です。
そして、私の暮らしも、基本的には、まったく、そんな暮らしの最たる状況であるとも言えます。
だからこそ、自分の人生を棚卸しておきたい
でも、私の中では“早い・遅い”、“やる・やらない”の話ではなく、一端、『自己総括』のような、ずっと片付けていなくて溜まりまくった、机の上の整理をするような、そんな気持ちに近いかもしれません。
なぜなら、ふとした瞬間に、自分の「これから」が今までより短い時間になっていることを実感するから。
体力の変化、老眼鏡のレンズ、息子との距離感──日々の中で、“少しずつ変わっていく時代・世の中の価値観・私の価値観”、そしてなにより、残される子への感謝を感じ始めたからです。
『飛ぶ鳥、跡を濁さず』
『あらたな時間として、残された時間を大切に生きる為』
この二つが、大きいです。
◆ モノを減らすと、心も軽くなる

今年に入って、再度、家の中を見直しはじめました。
一度、捨て活を始めて、ちょっとだけ動画にしてみた時期もありました。
しかし、その後、挫折して、ずっと手をつけられなかった押し入れや、流しの下の引き出し。
出てくる出てくる、「今の私」には不要なモノたち。
でも、ただ捨てるのではなく、「ありがとう」という感覚で手放していくと、なぜか気持ちも、すっきりと整っていくのが不思議です。
• 昔のパート先でもらった記念品
• 2シーズンを超えても、もう着ていない服
• もう読まない雑誌やレシピ本
等、いくらでも捨てるものが、まだまだあります。
◆ 終活は“死”の準備ではなく、“生きる”ための棚おろし
終活というと、「お墓の話」「遺言」「相続」といった言葉が浮かびますが、それも確かに大切ですが、しかし、それだけではありません。
もっと身近なこと──たとえば「どんなふうに暮らしたいか」「どんな人と関わりたいか」を見直すことも、立派な終活です。
私にとっては、息子と、
「いま、何を共にしていくことができているか」
「今後、何を彼の記憶に残すことができるか」
を考えることが、何よりの終活なのかもしれません。
それは、一緒に何かをするとか、どこか親子で旅行に行くとか、そういうことだけではないと思います。
たとえば、「これがおいしいから、また作ってほしい」という記憶。ペットについて共に、泣き笑い、心配すること。共に育むこと。
そんな日々の会話、共通の思いを重ねていくことが、もっとも大切なんじゃないかと思うのです。そして、それらは、今、私たち親子には、なかなかできていないことです。
◆ わたしのこれから
パート勤務の低所得、貯金はほぼ無し。息子と二人三脚でやってきた長い年月。
終活を始めたことで、「少しずつ不安を減らすこと」に加えて、「近未来のワクワクな気持ちを宿す」メンタリティーもついてきました。
- 月に一度は、自分のために、美味しいものを好きなだけ食べる(…といっても些細なものですが)
- 週に1回は、ネットデトックス。インターネットを使うのは音楽だけの一日を作る。
- 好きな音楽を聴く時間をつくる朝晩、軽いヨガ、ストレッチをして、レモン水を飲む
- 週に1回は、歩いて行くには、少しだけ遠い距離のスーパーへ、お散歩気分で出かける
これは、近未来に、ワクワクな気持ちを宿すための、私なりのメンタルデトックスでもあります。

もちろん、いつかくるその日のためにも…
自分の暮らしを大切にすること、いつか来るその日に、息子に負担をかけすぎないよう備えること、そして何より、「今」をちゃんと生きること。
それらを全部含めて、少しづつ、小さく終活を続けていきたいと思っています。
気合を入れすぎて、一度、停滞したので、これからは、肩の力を抜いていきます。





コメント