今、ここ。今を生きること
AIが人間の思考を読み取り、感情までも模倣する時代になった。
けれど、ふと立ち止まると、これは本当に人間の望んだ未来なのだろうかと思う。
便利で、効率的で、何でもできるこの世界。
それでも、どこか息苦しくて、何かが薄くなっていくような気がしてならない。
AIは麻薬のようだ。
楽になる、儲かる、面白い——そんな甘い言葉で人間を包み込み、
知らず知らずのうちに依存させていく。
その裏では、人間の思考や行動が解析され、支配の構造の中に組み込まれていく。
便利さの代償として、私たちは“自分で考える力”を少しずつ差し出している。
結局、テクノロジーとは「誰のための知性」なのだろう。
それを作る人間の欲望が変わらない限り、道具はいつも支配の側に立つ。
軍事や経済のために進化したAIを前に、
人間らしさを守る方法を、私たちはまだ見つけていない。
そんなことを考えていると、ふと、過去の人々を思う。
縄文…そして、戦国、江戸、明治、大正。
彼らがもし今の時代を見たら、きっと「夢のような国だ」と言うだろう。
ボタンひとつで光が灯り、水が湧き、病も治る。
情報は指先で手に入り、飢えることもない。
それでも私は思う——この時代に生まれたくなかった、と。
昔の人たちは、きっと一日一食でも、隣の馬が盗まれても、
それが“日常”であり、悲しいことや腹立たしいことも、
その日のうちに心で噛みしめ、どこかで折り合いをつける力を持っていた。
苦楽を消化して、また次の日を迎える。
それが、生きるということだったのだろう。
「生きる」ということさえ、あらためて考えていたかどうか……。
今の時代は、過去も未来も同時に知ることができる。
どの国の戦争も、誰かの絶望も、瞬時に届く___。
知りすぎるほどに、心は重くなる。
便利であるほど、心は脆くなっていく。
それでも___
結局、私はこの時代を生きている現実……。
過去への思慕の中、未来の情報に心が飲み込まれそうになりながらも、
結局、この複雑な現実迷路の答えなんて出やしない。
わかっているのは、
この「今」を生きているだけ。
嘆きも、悲しみも、笑いも、陶酔も、歓喜も…。
副産物に過ぎない。
なにかのね。
わかっているのは、「今、ここ。ここを生きている」だけ。





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