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延命治療はどうする? 心の揺れと決断。揺れはない私の“自然な終わり方”

こころの終活
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延命治療はいりません。
それが、私の考えです。

この言葉に「決断」とか「揺れ」という心のドラマはありません。長い時間をかけて悩んだわけでもなく、悟りのように到達したわけでもない。ただ、自分の生き方の延長線上に、自然とそう思っているだけです。

もし、傷口を放置したら破傷風になりますよ、というような状況なら、もちろん治療します。生きる努力を放棄したいわけではないのです。でも、意識が戻らない状態で延命されて、ただ管につながれて寝たきりになる。そんな状態になってまで「生かされる」ことに、私は意味を感じません。

そのとき、いちばん大変なのは誰か


本人ではなく、家族です。金銭的にも、精神的にも。たぶん私は、もう痛みも苦しみも感じず、ふわふわとあの世とこの世を行き来しているだけでしょう。その私を、家族が「逝かせたくない」と思ってくれる気持ちはありがたいけれど、私自身はそこに執着していないのです。

もちろん、誰にでも「延命治療なんてナンセンス」と言うつもりはありません。
長い昏睡から奇跡的に目覚める人もいます。まだ若く、人生がこれからの人、幼い子どもを残している人にとっては、延命は「希望」です。その選択を私は尊重します。

けれど、私の場合は違う。


シングルマザーとして、それなりに働き、暮らしを立ててきました。お金に余裕があるわけでもなく、老後に向けて少しずつ身の回りを整えている。そんな私にとって、延命治療は“生き延びる”ことではなく、“誰かの苦労を長引かせること”になる気がします。

「死」という言葉は特別じゃない

「死ぬ」という言葉を、特別なものとして扱う時代はもう終わっているのかもしれません。
人間も自然の一部です。野良猫が、ある日、静かに姿を消すように。私も、そういう最期でいいと思うのです。悲壮でもなく、投げやりでもなく、それが自然だから。

私の死生観は、環境から生まれたもの


一人で生きてきた分、自分の終わりも、自分の範囲の中で完結させたい。
命を粗末にするつもりはありません。でも、“生かされる”ことに意味を見いだせなくなったとき、静かに幕を下ろす。その選択を、私は恐れていません。

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