映画学校時代のこと・昭和の思い出
映画にまつわる青春時代のエピソードを語ろうと思います。
今回のテーマは「映画と青春」。いかにも昭和らしい、ちょっとベタなタイトルだけれど、これは私自身の実際の体験に基づく話です。
映画の学校との出会い
高校卒業後、私は映画の専門学校に通っていました。
父親は、4年制の大学に行きたいという私に、短大しか許さず……。
それならば__と、私は高校時代、演劇部だったこともあり、映画の専門学校に行くことを選びました。
今思えば甘い小娘だったかなと感じることもあります。
高い授業料の専門学校。クラスには、わりとお坊ちゃんやお嬢さんが多く、皆どこか浮世離れしていました。横浜映画専門学校と迷った末、通いやすさだけで別の学校を選んだ。
もし横浜を選んでいたら、同時期ですから、三池崇史監督と同じ校内にいたかもしれない。
当時、「横浜にすごいのがいる。監督志望らしい」という噂がありました。あれは、三池監督のことだったのだろうか。
私が通った学校からも有名俳優や朝ドラ主演女優も生まれています。それでも「世界の三池」のように誰もが知る人はいないかもしれない。
豪華な講師陣と、もったいない学生たち
その学校の講師陣は、高い授業料だけあって、今思えば、かなり豪華でした。日本映画を語るうえで欠かせない監督やプロデューサー、脚本家、評論家が次々と授業を担当していたのです。
西河克己監督(『伊豆の踊子』『若い人』『青い山脈』など)をはじめ、鈴木清順監督、深作欣二監督、小津安二郎作品に関わった脚本家など、まさに日本映画の黄金時代を支えた人々がずらり。授業料が高かったのも納得です。
私たちのクラスの担当主任講師は、浅草ボードビリアンから、戦後、映画界に入り、どんどんスターになっていった人達と共に仕事をしてきたプロデューサーでした。たとえば、芸能史に残るような人達、古くはエノケン、ロッパ,アチャコ。今の若い方も、「フーテンの寅さん」と言えば知っているであろう渥美清さん。さらに財津一郎さんとは特に親しく、モノクロ映画時代から活躍されていた方々と、公私ともにお付き合いがある先生でした。
しかし、そんな映画史が、すべてぎゅっと詰まっているような学び舎で、授業が終わると学生たちはそそくさと教室を出ていき、講師に話しかける者はほとんどいなかったかもしれません。
いつも話しかけているのは、今でいう“オタク”系。変身ものヒーローが好きで、語りだしたら止まらない人。この人は、よく監督たちに色々質問していました。
今思えば、あの貴重なチャンスをどぶに捨てていたようなものだと思う。女優になるとか映画監督や映画界で働くという、そういう話ではなくとも、日本の戦前・戦後をまたいで日本人の心を元気に支えた芸能史・映画史を、現場から生で聴けたのだから。なにかしらの肥やしになったこと間違いないと思います。
そんな貴重な2年間を、私はあまり大切にしていなかったようで、親には感謝よりも謝罪の気持ちのほうが強いです。

「自由」と「逃避」——若さゆえの幻想
映画監督を目指して本気で学ぶ人もいたけれど、多くは「芸能人に会える仕事がしたい」「スターになりたい」という軽い憧れだけで入学していた人も少なくなかった気がします。
裕福な家庭の子どもが多く、どこか世間知らずで純粋だった。中には、歴史に名を馳せる大大名・名武将をご先祖に持つ名家の子女や、政治家や大学教授の子どもいました。
そんな彼らは皆、何かから逃げたかったのだろうかと思うことがあります。
私自身もそうでした。祖父も政治家、親は裏社会のフィクサー、街を歩けば、みんな私を知っている。そんな環境から離れたくて自由が欲しかったのでしょう。ひとりになりたかったのでしょう。
そんな父は「女が四年制大学に行くと生意気になる」と言い、私は短大ではなく専門学校を選んだのです。
うちの家系には、当時、真言系の大僧正がいて、誰でも知ってる大きなお寺の住職もかねて、その横に住んでいました。父は、そこに私を住まわせて、池坊学院に通わせたかったようです。そして、末は政治家と見合い。
それは、映画学校を選び、歯ブラシをデニムのジーンズのお尻のポケットに入れて山手線に乗り通学するようなタイプの私には、「ちゃんちゃらおかしい話」でしかありませんでした。
他の誰かになりたくて、違う世界に行きたかった。それがあの頃の本音でした。
あの頃の教室にいた私へ
今、あの教室にいた自分に問いたい。
「本気で映画を学びたかったの?」と。
映画学校で過ごした時間は、若さと未熟さの象徴でもあったけど、確かに私の青春でした。
そして、あの時出会った監督たちや仲間たちの存在が、今も心の奥に笑顔が焼き付いています。
貴重な人生の冒険をしていたな…と思えるエピソードも満載です。たとえば、山口百恵と三浦友和主演の映画にエキストラバイトに行って、6時間、ほとんど踊らされっぱなしという『苦業』を体験したり、日活撮影所の食堂で、渡哲也さん、松田優作さんと相席になり、同じ冷やし中華を食べながら、いろいろ話かけられたけど、緊張して冷やし中華がのどを通らなかったこととか。面白いエピソードがたくさん。
私は、あの時期があってよかったと、今は思えます。
たしかにその後の、紆余曲折の人生で辛酸をなめた時代、その選択を後悔したこともあります。
父が言うように池坊学院に大きなお寺から通い、政治家とお見合いをして結婚。それも、また、違う人生だったけど、、そっちのほうがよかったかなと、ふと思ったことも___。

しかし、人生の最終章を歩む今となって、感じていることは__
「面白きかな、わが人生」
「命、いとおかし」
紆余曲折、アップダウンの大きな人生であったからこそ、「書ける体験」、誰もが体験できない「私が生きた環境だったからこその体験」をたくさん積みあげて歩いてきました。
あの時代のエピソードも、その前も後も、すべてが、重厚でカラフルなアルバムで輝き始めています。
たくさんの人生を演じ、たくさんの裏表、引きこもごもの人生を身近でみて、また自分もアップダウンのあるジェットコースターのような半生を歩みました。
すべては、この世界を「体験」「見学」「旅」しにきた__。そんな感覚も少しあります。





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