若いころは、「一人で生きるなんて寂しい」と思っていた。
子供の頃も、一人暮らしをしていた頃も、離婚して、またひとりになってからも……。
それでも、心のどこかでは、無意識のうちに、“いつか誰かと支え合う”という前提で生きていた気がする。
けれど、年齢を重ねて、身の回りを整理しはじめた今、ようやく気づいた。怖いのは「一人で生きること」そのものではなく、「一人になったとき、自分を支えられないこと」だったのだと。
人は、誰かに頼らずには生きられない。
それは確かだ。
でも、同時に“誰かの存在だけ”を支えにして生きると、相手がいなくなったとき、自分まで崩れてしまうだろう。
終活を意識するようになって、家の中の物だけでなく、人間関係や気持ちの整理も少しずつ始めた。はじめたというより、「ねばならぬ」的ではなく、むしろ、自然に、そういう感覚になってきたというほうが正しいかな……。
昔の友人との付き合い方、家族との距離、自分との向き合い方
「一人でも平気」と言い切れるようになったのは、強くなったからではない。
弱さをそのまま抱えて、逃げずに受け止めるようになっただけだ。
昔から、
「あなたは強いから」「おまえは強い女だから」「きっと、ひとりきりでも大丈夫」
などと言われ続けてきた。
夜、静かな部屋でひとりお茶を飲んでいると、窓の外の風の音や、湯気の立ちのぼる気配が、まるで話し相手のように感じられることがあるのだ。孤独は、敵ではなく、暮らしの一部になっていく。
「今、ここ」を生きる繰り返しの中で……。
もちろん、完全に「ひとりでいい」と思っているわけではない
人と関わることで、リアルも、心も、救われる瞬間は、たくさんある。
でも、誰もいなくても、「今日を穏やかに終えられる」──そう思える日は、心が軽い。
この感覚が持てるようになると、人とのつながりも、どんな相手、どんな場面でも、以前よりもっと自然体で、優しく穏やかな気持ちで迎えられるようになった。
終活という言葉は、なんとなく“終わり”の準備のように聞こえるけど、
私にとってはむしろ“心の整理”だ。
自分の中にあるだろう、気づかない寂しさや、得体のしれない不安がふとよぎる時……、もう、無理にその感情を追うことも追い払うこともせず、静かに受け入れる。
そうやって、無いものではなく、「今ここ」を受け入れる時間があることによって、
これからの暮らしを、さらに心穏やかにしてくれる気がする。
それは、そうしなければいけない、そうするべき…という話ではなく、自然に、そういう穏やかさが、日々、積み重なっていくように感じている、今日この頃。
とはいえ、
穏やかな、「茶飲みばぁさん」になって、「今なんて言ったの? お茶おくれ」なんていう「いわゆる穏やかな」暮らしを受け入れるという話ではない。感動やパワーを感じる瞬間、パッションはまだ、私の中にもあると思ってる。
だからこそ、「一人で生きることを、怖がらない」のだろうか。





コメント