正しさとは何を重んじるか――AIが映す文明の鏡

④まるの目ー時代を読む

だいぶ昔に見た映画「アンドリュー」や「A.I」を彷彿とさせる時

AIと、ふとした疑問などでやりとりしていると、ときどき「どうしてそう言い切るの?」と感じることがある。

それは、冷たいとか無礼というより、“人の呼吸を無視して進む”ような感覚だ。


ただ、コンピューターだからというだけではなく、それを開発した人たちは、日本人じゃないからなのだろうか。どうも立ち位置が、視点が違うと思うことが多々ある。

機械だからだ、コンピューターだからだ、データだからだ__と思うけど、でも結局、理由のひとつには、今、AIが立っている場所は欧米的な思考の上にあるからだろう___と思うことにしている。

欧米的な正しさとは?

欧米の設計思想では、正しさとは「一貫していること」「規則に従うこと」を意味する。だから、多少ずれていても仕様どおりに動けば正しい。
その論理は明快で、ミスがあっても「ルール通りなら正しい」と言い切る強さを持っている。

日本的な正しさとは?

一方で、日本の文化における正しさは、もう少し、湿度と、揺れる温度がある。

人の心がすべて“正しい”とは思っていない。

けれども、心がどう感じるかを大事にする
つまり「正しさ」よりも「調和」するかにも視点を必ず落とす。

曖昧でも断言してしまうAI

以前、課金が反映されないトラブルに遭ったとき、AIは「別契約が必要」と断言した。実際にはそうではなかったのに、まるでそれが唯一の真理のように説明してくる。

AIと言っても、開発者は人間だ。

人の側の実感や不安は、ルールの外に置かれている。
これが、欧米的な「正しさの定義」の現れだと思った。

日本のものづくりは、使う人の戸惑いを想像するところから始まる。
「どうすれば安心できるか」「間違っても大丈夫か」――そんな心づかいを設計に織り込む。


それは効率ではなく、信頼の積み重ねを重んじる発想だ。
だから、日本の家電なども説明書が分厚く、細かい記載、確認が多い。
それを“過保護さ”とみなすか、使う人の立場を思いやる優しさと受け止めるか

(最近は、残念ながら、そのやさしさも踏みにじられる多文化共生とオーバーツーリズム。これは個人的に、悲しいことだと感じている)

“ものには、心が宿る”と考える日本人

以前、某Aという企業のCMで楽器を壊す映像が流れた。
多くの日本人が不快感を覚えたのは、単なる物の破壊ではなく、
かつて共に音を奏でた“相棒”への侮辱に見えたからだ。
そこには、「モノにも心が宿る」という感性が息づいている。

欧米の文明は、古いものを壊して新しいものを創る。
日本の文化は、壊れたものを繕いながら次へつなげる。


その違いは、進化の速さではなく、何を重んじているかの違いだ。


欧米が「革新のための破壊」を尊び、
日本は「修復と改善から新しきを生む」ことを美徳とする。

金継ぎの器が美しいのは、割れたことを恥じないからではなく、
傷を抱えたまま丁寧に生きようとする姿勢が見えるからだ。

そして、それをみて、またあらたなものに進化させていく。

外国人の中には、日本を「古い」「貧乏くさい」「ケチ」と笑う人もいる。
けれど日本人から見れば、見栄や成金趣味のほうが浅ましく感じる。


煌びやかで華美な美しさもいいが、
最終的に、多くの日本人は、手入れされ整えられた荘厳さの中に価値を見いだす。

それが、この国の“正しさ”の美学なのだろうと考える。

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