日本語―「この子」「よろしかったでしょうか」に感じる違和感の正体

④まるの目ー時代を読む
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日本語が、静かに揺らいでいる。


そう感じはじめたのは、ここ数年のことだ。
言葉そのものが壊れていくというより、
“言葉の骨格”が少しずつたわんでいくような、不穏な違和感。

そのひとつが、「この子」という言い方だ。
小動物…たとえば猫などを「この子」と呼ぶのはまだ自然だろう。
生き物であり、家族に近い存在としての呼び方だ。


しかし最近では、愛用品であるグッズも植木鉢もスマホも「この子」。
愛してる「子」である温度の表現だろうし、「かわいい文化」の一端なのだろう。


文房具を撫でながら“この子がね”と言う若者の動画も珍しくない。
一見すると可愛らしい言い回しに見えるが、
本来の日本語の構造から見れば、明らかに無理がある。

日本語には「助数詞」

日本語には「助数詞」という、世界でも稀なほど精密な“数え方の文化”がある。


人は一人二人、猫は一匹二匹、本は一冊二冊、鉛筆は一本二本。
この体系は、ただの言い回しではなく、日本人が世界をどのように分類し、
どのように把握してきたかという“思考の骨組み”そのものだ。

助数詞が多い言語は、脳のワーキングメモリ──


つまり「思考の同時処理能力」を強く必要とする。
日本人のIQが世界的に高いとされる背景には、
こうした言語の複雑さも関係していると言われる。

脳の稼働率が高く、「タフな脳」を作り出している。
日本語の言語体系・語彙と表現法の、
圧倒的な多さも大きく関係していると言われている。

これは一つのデータであるが参考程度に観てみよう。

*これは World Population Review がまとめている
Lynn / Becker の「各国平均IQ推定値」のうち、
上位10カ国を並べたもの

順位 国名 推定平均IQ
1 日本 106.48
2 台湾 106.47
3 シンガポール 105.89
4 香港 105.37
5 中国 104.10
6 韓国 102.35
7 ベラルーシ 101.60
8 フィンランド 101.20
9 リヒテンシュタイン 101.07
10 ドイツ 100.74

日本が毎年IQトップなのは、知られているが、ざっくりとみても
北東アジア圏が圧倒的にIQが高い。シンガポールは華僑が多いせいだろう。


それほどまでに、日本語は繊細で多層的な構造を持っている。
大切に、誇りをもって守るべき言語なのだ。

ところが、そこに外から“多様性”という名の単純化が流れ込み、
「猫も人も同じ命だから、人と同じ数え方でいい」
「一匹は差別的だから使わない」
といった、日本語以外の言語圏に分かりやすい、合わせやすい
極端な考え方、使い方まで現れはじめた。

それは偶然かもしれないが、その偶然は、社会全体の仕組みや文化の流れ、
空気がそのような流れを作り始めているということだ。

本来の多様性とは、“違いを尊重する”ことであって、
“違いを消して統一”することではない。
動物を一匹と数えるのは差別ではなく、
言語体系における分類の違いであり、そこに優劣は存在しない。


しかし、SNS空間ではこうした感覚が薄れ、
日本語が持っていた本来の分別が無造作に崩されはじめている。

この傾向は言葉遣い全体に広がっている。


たとえば飲食店でよく耳にする「よろしかったでしょうか」
丁寧に聞こえるかもしれないが、
本来は“過去の出来事の確認”に使われる表現だ。
注文を受ける瞬間に使うのは、文法的にも意味的にも誤用である。
しかし今ではマニュアル化し、若い店員が当然のように使っている。
「よろしいですか」という正しい言葉は、
逆に“古くさい”という扱いを受けてしまうことさえある。

言葉が生き物である以上、変化するのは自然だ。
だが今起きているのは、
“自然な変化”ではなく、
“雑さの拡大”、“日本語の語彙の切り捨て”に近い。

背景には、
・言語教育の簡略化
・SNS文化の即物的な表現
・英語圏の価値観の流入
・日本語講師の非母語話者の増加
などが複雑に絡んでいる。

教える側が日本語本来のニュアンスを持たなければ、
学ぶ側も当然、その感覚を知らずに育つ。
そしてその逆輸入のおかしな日本語を日本人が喜んで使う逆転現象が起きている。

私には、長く官公庁や企業でマナー講師をしてきた親友がいる。
その彼女が近年の日本語の乱れを深く憂いていた。
韓国式の“コンス”という挨拶が日本に混入し、
ホテルマンまでが日本伝統の礼の形を忘れ、
日本では、本来、水商売の女性たちの美しい所作であったものを
もっとも一義の、日本人の挨拶として一般化してしまう。

皮肉なことに、日本人の正しい挨拶は、
かつて日本だった国々にはだいぶ残っている。
特に、北朝鮮の挨拶は、美しい日本式の挨拶だ。

なぜ、いつから韓国は妓生の挨拶が主流になってしまったのだろうか。
しかし、外国のことについて、それが良い悪いと、ここで論じるつもりはない。

他国内の道理をあれこれ言うつもりはないが、
しかし、あきらかに日本は違うのだだから___。

これもまた、文化の骨組みが溶けはじめる典型だという。


日本の所作は、日本語と同じく「筋」がある。
手の位置、角度、言葉遣い──全部に理由があり、背景がある。
それが曖昧になるということは、
言語と文化の境界線が薄れていくということだ。

文化は、ある日突然なくなるわけではない。
気づいた時には、「あれ? 何かおかしい」という違和感が、
数十年かけて積み重なっていく。
そして、元に戻すには膨大なエネルギーが必要になる。

今の日本語のゆらぎは、
まぎれもなく、その “初期症状” に思えてならない。
「この子」という言い方ひとつ、
「よろしかったでしょうか」という表現ひとつ、
その小さな違和感が積もるたび、
日本語という文化の背骨に亀裂が入っていく。

日本語が失われれば、同時に失われるのは
日本人の思考の形、感じ方、世界の見方だ。
だからこそ、誰かが声をあげなければいけない。
それも、怒鳴るような主張ではなく、
静かに、淡々と、違和感を言語化して伝えていくこと。

いまの、日本語を大切にしない風潮は、
“多様性”という名を借りた“無差別な秩序と思想強制”の波にもうまく乗っている。
優劣をつけないために、区別まで消してしまう。
だが、日本語は本来、分類と秩序の美しさを持つ言語だ。

学校教育では、中国語や韓国語も教えられているところがあるという。
幼稚園から中国語を教える保育士がいたり、
韓国文化を学ぶ時間(隣国を理解する為)として韓国語の時間。

まず、日本人には、日本語をしっかりと教えてもらいたいものである。
恣意的な教育の変化なのか、教育者が外国人なのか、
文科省が、それを推進しているのか__。

これはやがて、
“日本人の自分を意識できない日本人”が大人になっていくだろう。

その時、もう、日本がどこの国なろうと、この教育環境で育った子たちは、
どこまで、母国と母語を大切にしたいと思うだろうか。
どうでもよいと思う子も増えるのではないだろうか。

日本語。その美しさを守ることは、
懐古ではなく、
未来に向けて文化をつなぐための責任だと思う。

母語をないがしろにしていけば、やがて失う。
失うことに違和感を感じなくなる。

それは、国を失うということだ。

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