昭和世代が感じる“いまの日本”の変化、私たちが残すものは?

④まるの目ー時代を読む
スポンサーリンク

昭和世代*いまの日本に感じる変化、私たちに残された役目

昭和の頃と比べると、いまの日本は本当に姿を変えました。
街並みも、働き方も、人との距離感も価値観も、まるで別の国のようです。

昔は、良くも悪くも、ある程度の“横並び”がありました。
家族の形も、働き方も、生活のリズムもみんな似ていて、
良い意味での共同体意識もありました。

*今は、それが良くない窮屈なことのような論調のほうが、
多く感じる人もいると思いますが、声が大きな論調と、実際の世論は別ものです。

「統制社会化していたか」といえば、そんなこともない。

それぞれの夢や希望を追うためのプロセスを考えたり、
その道に進んだり、そして、なにより、努力が報われることが多い(全員とは言わないが)時代でもあった。

だから、大人たちも夢と希望があり、子供たちはその大人たちを見て育つから、
それぞれに夢や努力の価値を感じていた。

今は、その「努力さえ害悪」無駄なもののように言う風潮もある。

 

家族構成も在り方も、欧米の価値観を是として日本は変わっていった。

良くも悪くも、日本式が悪く古く、欧米式が新しく正しいという、
一見多様化しているように感じていたけれど、実際は、ただ、日本を捨てて欧米化しただけだった。

今では、ひとり暮らしも、子どものいない家庭も、
働かない選択も、そして、孤独死さえも、どれも特別なことではなくなった。

 

そして、その欧米化の価値観の影で、埋もれていく声が小さい人達という括りが出てきた。

『歪んだ自由の対価』は、

力のない人たち、声が小さい人達、

ただ、まじめに日々を送ってきた人たちに、しわ寄せがきた恰好だ。

 

便利になった一方で、孤独も増えた。

昔は、近所の人にちょっとしたことで声をかけられたのに、
今は、同じマンションに住んでいても顔を知らないことが珍しくない。

“干渉されない”という自由さと引き換えに、
どんな時にも、人と人とのつながりはあてにできない、してはいけない
という、暗黙のルールのように、人間関係が薄くなってしまった面も……。

人間関係が希薄な大人が増えれば、人と人の関係が作れない、
あるいは利己主義的な子供たちが増えるのは当然の未来。

昭和の空気を知る私たちには、今の日本の変化がはっきり見える。

「ずいぶん変わったな」

そんな気持ちと同時に、どこかで「まだ捨てたくないもの」がある。

たとえば、ちょっとした思いやり。
道で困っている人がいたら声をかける。
回覧板をまわすときに一言添える。
買い物帰りに近所の人に出会ったら、軽く会釈をする。
そういう小さな習慣は、昭和世代が自然に身につけてきたもの。

今の日本にこそ、そういう空気こそ必要だと考えるが、
それさえも、阻む「声の大きな人たち」によって、遮断されようとしている。
「いただきます」「ごちそうさまでした」さえ、悪い事と言い出した。

大きな正義を語ることができなくても、それだけではなく、
“人と人とのあいだの温度”を、さりげなくつたえていくこと。
これが、昭和をくぐり抜けてきた私たちの、最後の役割なのかもしれない。
それは、押し付けではなく、ただ、「“日本”の昭和の話」をすればいい。

世の中は、これからもっと変わっていくだろう。
スピードも、働き方も、人間関係も、昭和とは比べものにならないほど。

でも、私たちには長く生きてきた分だけ、リアルの良い点悪い点を
比較できるという経験と“変化に揺れない芯をつくれる根拠”がある。

それは、時代遅れではなく、
変わりゆく日本でこそ必要とされる力。

昭和世代に残された役目は、日常の中で静かに、日本が日本である、その良き価値と、
昭和を生きていた、生き証人として、かつての息遣いを、伝え体現していくこと。
明治・大正・昭和を生きた、私たちの祖父母や父母のような価値観、暮らしぶり、その姿そのものを
リアルに知っている私たちは、日本を知る最後の世代になるかもしれない危機さえ覚えている。
だから、それを伝えていくことも、次の世代へ、必ず、良い贈り物になると信じている。

 

昔と同じように戻るわけではないし、昔がすべてよかったわけでもない。
しかし、私たちの存在が、この国に少しだけ温度を残していく。
それは、この混迷極め、揺らぐ日本にとって、必要なことであると感じている。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました