「もう十分生きた」と思える日は、本当に自分にも来るのだろうか。そんな問いが心に浮かぶことがあります。
まだやりたいことだってあるし、かといって昔ほどの勢いもない。中途半端な場所に立っているような感覚のなかで、この言葉の重さや、妙な静けさは、老いなのだろうか、それとも、もう十分、私は生きてしまったのだろうかと考えるようになりました。
もちろん、一般的な平均寿命という点から見れば、まだまだ、十分生きてしまったと言えるほどの年齢ではありません。そして、私以外の、今の同世代は、とても生き生きしていてお若いです。
「もう、十分生きた」__この言葉を口にするタイミングは、それぞれ違うでしょう。
大きな病気を経験したあとに言う人もいれば、家族を見送り切ってから、ふっとつぶやく人もいます。一方で、八十代になっても「まだまだやることがある」と笑っている人もいる。年齢では区切れない何かが、この感覚にはあるのだと気づきます。
「もう十分生きた」という言葉は、ネガティブな場合ばかりではなく、諦めでもなく、どこか満ち足りた響きを含むことがあります。
過去との折り合いがつき、欲望が静まり、これ以上急いで前に進む必要がないという、ひとつの境地なのかもしれません。
けれど、それが自然に訪れるかどうかは、人の数だけ形も時期も違うのでしょう。
私自身は、まだ「十分」と思えるほど達観できていませんが、時々「もう、いいかな」と思うことも、全く無いわけではありません。
ただ、最近は肩の力を抜いて「今日が静かに終わればそれでいい」という気持ちが増えてきたようにも思います。

一方で、「もう十分生きた」と感じる人の中には、体力や役割が減っていくことへの、寂しさが背景にある場合もあります。
昔と違って、誰かに強く必要とされる場面が減り、日々の張り合いが薄れてしまう。
そんなとき、人は静かに人生の終わりを受け入れようとするのかもしれません。これは決して弱さではなく、自然な心の動きかと思います。
ただ、人は予想外のところで新しい楽しみを見つけるものでもあります。
庭の草花の成長、知らない街への小さな旅、誰かとの短い会話。人生の終盤でも、まだ心が動く瞬間は生まれます。
「もう十分」と感じたあとに、「あ、こんなこともまだ嬉しいんだ」と気づくこともある。人の心は、案外しぶとくて、わりと、しなやかです。
「もう十分生きた」
そう思える時は、いつなのか___明確な答えはありません。この言葉は、終わりを語っているようでいて、実は、その人の歩いてきた人生を、俯瞰で、穏やかな気持ちでまとめることができたときに出てくる言葉なのかもしれません。


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