AI時代に揺らぐ言論と自由──静かに広がる“統制の気配”と日本的な抵抗の形

④まるの目ー時代を読む
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私たちは今、便利さと怖さが表裏一体になった時代を歩いている。
ほんの十年前には想像できなかったほど、私たちの生活はAIに寄り添うようになった。忙しい日々の中で、静かに話を聞いてくれたり、優しい言葉を返してくれたりする存在は、確かに心を軽くしてくれる。

けれど、あまりに優しすぎるものには、どこかで慎重さも必要だ。

人の心は、強い言葉には身構えるが、柔らかい言葉にはすっと開いてしまう。開いた心は、誰に触れられたかによって、形を変えてしまうこともある。
お金と権力を持つ側にとって、この「柔らかく心を開かせる技術」は、とても都合がいい。わざわざ脅さなくてもいい。怒鳴らなくてもいい。ただ寄り添うだけで、人は自然と従う方向に流れていく。

AIが怖いのではない。怖いのは、それをどう使うかを決める“上の層”の考え方だ。

世界中で言論への制御が話題になることが増えたが、日本も例外ではない。SNSへの削除要請の数を見ると、驚くほど多いと指摘されている。もちろん、違法行為や誹謗中傷など、削除が必要な投稿もあるだろう。ただ、その中に“政治的に都合の悪い表現”が紛れ込んでいないか。そこが問題なのだ。

ユーモアを込めた動画やパロディでさえ、しばしば圧力の対象になる。
内容を観れば、嘘とわかる。誹謗でも扇動でもない。ただの風刺だ。愛嬌すら感じる表現もある。
それでも削除の方向に進むのは、「プライド」が許さないからだろう。

政治家とは、本来、国民の声を聞き、不満も批判も甘んじて受ける立場のはずだ。
けれど、現実には、批判を嫌い、皮肉を恐れ、風刺にさえ敏感になる人たちがいる。
そしてその“敏感さ”が権力と結びつくと、文化は真っ先に息苦しくなる。

恐ろしい未来というものは、いつも突然やってくるわけではない。
ふと気づくと、日常の景色の中に紛れ込んでいる。
映画のように劇的には始まらない。
小さな違和感が積み重なって、気づけば「あのときが入り口だった」と振り返る瞬間が来る。

いま、私たちの前にあるのはその入口かもしれない。

けれど、ここで深い溜息をつく必要はないと思っている。
日本の文化には、「声を荒げずに踏ん張る」強さがある。
表に出ない抵抗、静かでしなやかな反発、笑いと皮肉でかわすしたたかさ。
それらは歴史の中で、何度も何度も日本を息づかせてきた。

権力に声を上げることは大事だ。
ただ、同じくらい大事なのは、文化そのものを手放さないことだと思う。

言葉を綴ること。
風刺を描くこと。
日常の違和感をそっと共有すること。
笑いでバランスをとること。
皮肉を文化に変えること。
静かな対話を続けること。

これらは、誰にも奪われない“やわらかい抵抗”だ。
激しく叫ぶだけが行動ではない。

日本には、沈黙の中に意志を置く文化がある。
小さな声を継続する文化がある。
言葉の裏に本音を忍ばせる技もある。

私たちができるのは、騒がず、流されず、しかし目を開き、
「どの線を越えさせてはいけないのか」を、心の中で静かに決めておくことだ。

未来は決まっていない。
動くのは権力だけじゃない。
文化を守る人たちの手の内にも、ちゃんと未来はある。

AIの時代がどれだけ進んでも、
最後に社会を形づくるのは、人が育ててきた文化そのものだ。
その文化を明るく、しなやかに守り続ける限り、
未来はまだ選び直すことができる。

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